Translate

2018年10月31日水曜日

青春~恋愛編


男女七歳にして席を同じくせず
我々の青春初期、敗戦直前「男女七歳にして席を同じくせず」というテーマが流れていた。小学校は多分同席だったと思うが、旧制商業校は勿論八幡教習所時代も女性の思い出は一切ない。

終戦翌年
終戦翌年秋、教習所卒業、製鉄所に復帰。最初に配属された部署は石炭をコークスに変えるコークス炉新設工事の監督課。人員は、課長、掛長、ベテラン係員と私4人。工事の請負はK組、コークス炉の建設は異形煉瓦を組合せ、作り上げていく。煉瓦の運びは女性、背中に運び板を背負い、それに大型煉瓦を入れ、新設コークス炉の上昇通路を一歩一歩上まで運んでいる。

生まれて初めてのデート
70年前の話、詳しいことは忘れたが、その女性群の一人、Yさん(K組の社長の姪)、今まで東京に居たと聞いたが、そのYさんに誘われ、生まれて初めてのデート。太平洋岸の砂浜を二人きりで歩いていたが、突然彼女が私に抱きついてきた。おー来た!と思い、こちらも彼女の通り抱きついたら、今度は側の草むらに抱きついたまま倒れた。こちらも倒れたがそれで満足。暫くしたらYさん帰ろうと立ち上がり別れたが、その後、何の誘いもなく、別の男性と付き合っていたようだ。

お母さんとのデートは・・・
新設工事終了後、煉瓦工場へ異動。そこでお母さんと出会い、どちらが先に誘ったか忘れたが、何回もデート。お母さんも俺と同じく男女同席せずの時代の生まれ。デートはいつも小さな妹を背負い、三人で。そして結婚。お互い男女の愛し方も何も知らぬまま、いつの間にか素晴らしい娘三人に恵まれた。超嬉しい。Oh! Wonderful!
お母さん今、天国で笑ってる。

2018年10月11日木曜日

一番嬉しかったことは

父に問う
Q.今、辛いことは?
A.眠れないこと。睡眠薬の副作用。眠たいのに眠れない。

Q.今、楽しみなことは?
A.ロトを考えること。

Q.人生で一番嬉しかったことは?
A.みんなに支えられて生きてこれたこと。

Q.人生で一番悲しかったことは?
A.ない。

Q.横になって何を思っているの?
A.仕事を疑問を頭の中でずっと考えている。昔からずっと。未だに癖になっているのかな。


2018年9月24日月曜日

多くの人に支えられて

老後は異変続々。されど有難いことも多々。多くの人に感謝感謝。

1.狭心症発生時、私の体温35℃。家内に早く先立たれ一人暮らし。栄養素のアンバランスが原因?その時、米国の健康食品エリナを勧めて呉れた別府のエリナの会員の皆さん、有難う。お陰で私の体温、36.3℃に上がりました。

2.何年前か忘れましたが、別府の英会話教室に通っていた頃、難聴発生、日々悩んでいた処、英会話の高元先生、太極拳への変更を勧めてくれました。
太極拳は予備運動が大事。私毎朝起きたらベッドで予備運動の一部を行っていますが、四年位前、予備運動終了後、朝日に向かって爪先立ちで両手を伸ばした瞬間、両方の手の平に宇宙の気がバリバリと何発も。そして手の平からポンポンと出て行きました。
腰を抜かす程の驚きと喜び、以来毎日気に触れています。太極拳を勧めて下さった高元先生、Thank youの一語です。そして大分の副会長千鳥先生、福岡の米谷先生、そして生徒の皆さん、有難う御座います。

3.福岡の整体師粟田先生、あの時苦汁を飲まなかったら、今、どうなっているか分かりません。先生、心からお礼を申し上げます。

4.別府時代、実に多くの人々からお世話になりました。青山喫茶の会の皆様、お変わりないでしょうか。私元気になったら、年何回も別府へ出かけます。その節は宜しく。

5.名古屋製鉄所時代、仕事も山登りも何時も一緒の川端さん、今は愛知県の宣教師、私の症状を知って毎日回復を祈って呉れています。本当に有難い。

2018年9月20日木曜日

製鉄所時代

これを契機に東大、京大卒が主力の品質管理課へ配属され、統計学も彼等と一緒に東京で東大教授の講義を毎月一週間半年受けた。この統計学を活用し、室蘭製鉄所新設のガスホルダーと発電所の容量を算出、予算獲得の為、建設の最高幹部、佐藤さんが何回も私を本社へ連れて行ってくれた。
当時はプロペラ機。思い出がいっぱい。
そして昭和40年新設の名古屋製鉄所へ転出、ガスホルダーと発電所の容量を算出した。その後、掛長として製鋼へ異動。たまたま机の側を人が通ったので頭を上げたら、なんと室蘭でお世話になった佐藤さん。「おーお前此処にいるのか、大分へ来い。」と言われ、昭和46年大分製鉄所へ異動。昭和53年課長、その後関連会社へ出向。その時の支店長は、室蘭時代にお世話になった亀井さん。
人生の進路は脈絡、全ての人に感謝、全ての人に尽くす、やはりこれは最高。
最後になったが、お母さんと私が初めて会ったのは、室蘭煉瓦工場の事務所の入り口に一番近い机。

2018年9月15日土曜日

教習所での思い出

教習所での専攻科目は耐火煉瓦、鉄を鋼にするには1450℃で加熱する。
この高温に耐える煉瓦は宝石並み。最高級の珪石を使い粒度調整も念入りに型を作り上げるが、珪石の加熱は、530℃付近に急膨張点があるので、その近くはゆっくり加熱しないと煉瓦に亀裂が入る。当時は炎の長い石炭を使うのが定石。
教習所卒業後、煉瓦工場に配属され真っ先に丸窯を覗いたら、紅い炎が直接煉瓦に触れているので、上司に530℃までは炎の出ないコークスで焼いてはと提言した。
上司はやってみようと実行したら、40%台の歩留まりが一気に倍加80%台。お陰で社長賞そして当時全国的にも著名な永野重雄社長、本社の重役陣に囲まれ、昼食会を行ってくれた。

2018年9月11日火曜日

幼年期の思い出

幼年期の思い出は殆どない。何歳頃か、兄姉達が集まって、食べ合い談笑。俺一人外されていて、側の紙をくしゃくしゃに。
兄たちビックリ、大笑いされた記憶、未だ残っている。

これは自慢話、以前触れたかも知れないが小学六年生時、算数の成績開学以来と教師から言われたが兄弟は勿論親にも言ってないかも。小学校卒業後は旧制商業、算数は中学に比べたら半減。親から「代数のあたま」と「幾何のあたま」の本を買って貰い、一人で全部読み切った。これを契機に理数科は全て自習。八幡教習所の合格はこのお陰。

2018年9月7日金曜日

戦時下の思い出 その2

八幡での生活は終戦一年前。過酷そのもの。
寮、教習所も戸畑中原、直ぐ傍の皿倉山の山頂に高射砲陣地、砲弾運び何回も。
食事量は政府の指定範囲、毎日朝食時、三食貰い、それを全部平らげ昼、夜は食べる物なし。そこで暇をみては皆で雑草取り、「これは食べれる、これはダメ。」と声をかけながら。雑草は軽く水洗いし、塩をかけて飯盒で煮るだけ、私の体重は45㎏に。

終戦4か月前、兵役検査があり、レントゲンで肺が真っ黒で、肺門リンパと言われ、兵役免除された。もし入隊していたら北海道出身者はシベリアへ。終戦後極寒の地で強制労働を強いられ六万人の方が亡くなったと聞いた。私も行っていたら間違いなくその一人になったか。肺門リンパになった時期、そして治った時期も知らない。まさにこれは神に感謝

八幡の市街も空爆を受けたが、その時期は覚えていないが、米軍B29、二機が皿倉山の高射砲を受け海に落ちていくのをこの目で見た。翌朝八幡東の電車通路を歩いたが、死骸がごろごろ、寮に帰ったら四人部屋の一人も焼夷弾の破片が腹に当たり亡くなったと聞いたが、場所も遺体もみていない。明日は我が身。そんな時代だった。

終戦後、一度帰省したら、昭和19年7月、室蘭が米艦の砲撃中、兄が病気で亡くなったと初めて聞いた。遺体は親父が荷車に乗せ、一人で焼き場で焼いたと。

青春~恋愛編

男女七歳にして席を同じくせず 我々の青春初期、敗戦直前「男女七歳にして席を同じくせず」というテーマが流れていた。小学校は多分同席だったと思うが、旧制商業校は勿論八幡教習所時代も女性の思い出は一切ない。 終戦翌年 終戦翌年秋、教習所卒業、製鉄所に復帰。最初に配属された部署...