この高温に耐える煉瓦は宝石並み。最高級の珪石を使い粒度調整も念入りに型を作り上げるが、珪石の加熱は、530℃付近に急膨張点があるので、その近くはゆっくり加熱しないと煉瓦に亀裂が入る。当時は炎の長い石炭を使うのが定石。
教習所卒業後、煉瓦工場に配属され真っ先に丸窯を覗いたら、紅い炎が直接煉瓦に触れているので、上司に530℃までは炎の出ないコークスで焼いてはと提言した。
上司はやってみようと実行したら、40%台の歩留まりが一気に倍加80%台。お陰で社長賞そして当時全国的にも著名な永野重雄社長、本社の重役陣に囲まれ、昼食会を行ってくれた。
父の黄金時代:父の青春時代は戦争時代真っ只中であった。手紙を読むと、戦後、製鉄所に勤め、鉄に夢中に取り組んだ父の姿が見えてくる。時は戦後の復興期。皆が生きるために、戦後の新しい日本を作るために必死で生きた時代である。私が幼い頃から聞いた父の思い出の大半も鉄への熱い思いばかり。
父のような人間が、戦後の復興の一翼を担ったのであろう。父の生き生きとした文面から、当時の日本人には、今の日本人が忘れてしまった力強く生きるパワーを感じることが出来る。
原文の手紙より
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