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2018年9月5日水曜日

戦時下の思い出 その1

私は大正15年9月北海道室蘭市で出生、昭和7年の満州事変時、小学1年生、思い出はない。
小学校卒業後商業校に入学。五年生だが、戦時下の為四年半で卒業、地元の製鉄所に入社したが、すぐ八幡の教習所(今の高専クラス)への受験を勧められパスし、昭和19年8月八幡へ向かった。
青森までは母親と一緒。
そこでおばあちゃんから林檎をリックにいっぱい貰い、それを食糧に裏日本経由で八幡へ向かった。
当時日本各地は米国の爆撃下、列車は動いては止まり、止まっては走る、その連続。枝光駅まで七日間、しかも真夜中、町は灯火管制で真っ暗、車内もかすかな灯りのみ。
今夜どうしようかと思案中、前の席のおじさんが「坊や何処へ行くの?」と聞いてくれたので事情を話したら、「それは無理、今夜私の処へ泊りなさい。」と言って一泊させてくれた。有難いの一語、されど部屋も暗く、名前も聞かずお別れした。
今もお前は馬鹿かと時折悔いている。

満州事変とは:1931年に中国の遼東半島に駐留中の旧日本軍の一派の関東軍が主導となり満州国を建国した事件。満州鉄道爆破事件の犯人を中国軍だとでっちあげ、それを口実に中国軍拠点を攻撃し、満州国を建国した。これが陰謀であることが国際連盟の調査で発覚し、日本は各国から猛烈な批判を受け、世界から孤立していくこととなった。

商業校:第二次世界大戦後より前の当時の中学校は旧制中学校で五年生であった。

教習所:教習所と言えば、今では自動車教習所かと思われるが、当時は鉄道教習所、巡査教習所などがあった。父の指す教習所は、恐らく製鉄所教習所のことと思われる。

灯火管制:戦時において軍事施設、部隊の灯火を管制し、電灯、ローソクなどの照明の使用を制限したことをいう。敵から夜間空襲や砲撃の的になることを防ぐことを目的としていた。

父から戦争当時の記憶を聞いたのは初めてのこと。今なら飛行機でわずか2時間の距離を、列車が止まっては走り、又止まっては走りして、七日間もかけて到着した苦労が目に浮かぶ。真っ黒な列車内に真っ赤な林檎を背負った17歳の少年(父)の姿。当時の日本と同じく、暗闇の中にも希望(林檎の赤)が見えるようだ。父の手助けをしてくれた前の席のおじさんもきっと今はこの世にいないが、人間はいつの時代も支え、支えられているのだなと思う。

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