八幡での生活は終戦一年前。過酷そのもの。
寮、教習所も戸畑中原、直ぐ傍の皿倉山の山頂に高射砲陣地、砲弾運び何回も。
食事量は政府の指定範囲、毎日朝食時、三食貰い、それを全部平らげ昼、夜は食べる物なし。そこで暇をみては皆で雑草取り、「これは食べれる、これはダメ。」と声をかけながら。雑草は軽く水洗いし、塩をかけて飯盒で煮るだけ、私の体重は45㎏に。
終戦4か月前、兵役検査があり、レントゲンで肺が真っ黒で、肺門リンパと言われ、兵役免除された。もし入隊していたら北海道出身者はシベリアへ。終戦後極寒の地で強制労働を強いられ六万人の方が亡くなったと聞いた。私も行っていたら間違いなくその一人になったか。肺門リンパになった時期、そして治った時期も知らない。まさにこれは神に感謝。
八幡の市街も空爆を受けたが、その時期は覚えていないが、米軍B29、二機が皿倉山の高射砲を受け海に落ちていくのをこの目で見た。翌朝八幡東の電車通路を歩いたが、死骸がごろごろ、寮に帰ったら四人部屋の一人も焼夷弾の破片が腹に当たり亡くなったと聞いたが、場所も遺体もみていない。明日は我が身。そんな時代だった。
終戦後、一度帰省したら、昭和19年7月、室蘭が米艦の砲撃中、兄が病気で亡くなったと初めて聞いた。遺体は親父が荷車に乗せ、一人で焼き場で焼いたと。
命は遥か昔から繋がっている。あの時、もし父が兵役検査を通過していたら・・・あの時もし父が寮に帰っていたら・・・私もここには居ない。肺門リンパのお陰で私もそして私の子供たちもこの世を生きている。
命は先祖達の偶然から繋がってきている貴重なもの。まさにこれは神に感謝。
拝啓、皆様、初めまして。「千(せん)」と申します。これは私の父「康(やす)」からの手紙です。 父は大正15年(1926年)生まれで今月92歳になります。26年前に母に先立たれ、現在、サービス付き高齢者マンションで独り暮らしをしています。 90代の今、戦争時代の経験、幼少時の思い出等々。父の記憶や思いをブログにしました。
Translate
2018年9月7日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
ロトに夢中
もうじき93歳になります。コロナが蔓延するまでは、毎日のウォーキング、週二回のおばちゃんたちに交じっての太極拳。時々一人でイオンのパンコーナーでのコーヒータイム。それが唯一の楽しみでした。 ステイホームで県をまたぐ移動が出来なくなり、娘の私も新幹線にのって2月1回会いに行って父親...
-
私は大正15年9月北海道室蘭市で出生、昭和7年の 満州事変 時、小学1年生、思い出はない。 小学校卒業後 商業校 に入学。 五年生 だが、戦時下の為四年半で卒業、地元の製鉄所に入社したが、すぐ八幡の 教習所 (今の高専クラス)への受験を勧められパスし、昭和19年8月八幡へ向かっ...
-
幼年期の思い出は殆どない。何歳頃か、兄姉達が集まって、食べ合い談笑。俺一人外されていて、側の紙をくしゃくしゃに。 兄たちビックリ、大笑いされた記憶、未だ残っている。 これは自慢話、以前触れたかも知れないが小学六年生時、算数の成績開学以来と教師から言われたが兄弟は勿論親にも言...
-
平成30年8月12日 私は9月11日で満92歳。老後は異変続々。 70代最後、狭心症で右冠動脈にパイプ3本。この為、血圧管理は最高に重要。 80代半ば、道路をまっすぐ歩けなくなった。医者の診断は加齢の一言。 90代、眩暈ふらつき増強、手足のビリビリ感、何故か睡眠薬が処方さ...
0 件のコメント:
コメントを投稿