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2018年9月7日金曜日

戦時下の思い出 その2

八幡での生活は終戦一年前。過酷そのもの。
寮、教習所も戸畑中原、直ぐ傍の皿倉山の山頂に高射砲陣地、砲弾運び何回も。
食事量は政府の指定範囲、毎日朝食時、三食貰い、それを全部平らげ昼、夜は食べる物なし。そこで暇をみては皆で雑草取り、「これは食べれる、これはダメ。」と声をかけながら。雑草は軽く水洗いし、塩をかけて飯盒で煮るだけ、私の体重は45㎏に。

終戦4か月前、兵役検査があり、レントゲンで肺が真っ黒で、肺門リンパと言われ、兵役免除された。もし入隊していたら北海道出身者はシベリアへ。終戦後極寒の地で強制労働を強いられ六万人の方が亡くなったと聞いた。私も行っていたら間違いなくその一人になったか。肺門リンパになった時期、そして治った時期も知らない。まさにこれは神に感謝

八幡の市街も空爆を受けたが、その時期は覚えていないが、米軍B29、二機が皿倉山の高射砲を受け海に落ちていくのをこの目で見た。翌朝八幡東の電車通路を歩いたが、死骸がごろごろ、寮に帰ったら四人部屋の一人も焼夷弾の破片が腹に当たり亡くなったと聞いたが、場所も遺体もみていない。明日は我が身。そんな時代だった。

終戦後、一度帰省したら、昭和19年7月、室蘭が米艦の砲撃中、兄が病気で亡くなったと初めて聞いた。遺体は親父が荷車に乗せ、一人で焼き場で焼いたと。



命は遥か昔から繋がっている。あの時、もし父が兵役検査を通過していたら・・・あの時もし父が寮に帰っていたら・・・私もここには居ない。肺門リンパのお陰で私もそして私の子供たちもこの世を生きている。
命は先祖達の偶然から繋がってきている貴重なもの。まさにこれは神に感謝

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