Translate

2018年9月24日月曜日

多くの人に支えられて

老後は異変続々。されど有難いことも多々。多くの人に感謝感謝。

1.狭心症発生時、私の体温35℃。家内に早く先立たれ一人暮らし。栄養素のアンバランスが原因?その時、米国の健康食品エリナを勧めて呉れた別府のエリナの会員の皆さん、有難う。お陰で私の体温、36.3℃に上がりました。

2.何年前か忘れましたが、別府の英会話教室に通っていた頃、難聴発生、日々悩んでいた処、英会話の高元先生、太極拳への変更を勧めてくれました。
太極拳は予備運動が大事。私毎朝起きたらベッドで予備運動の一部を行っていますが、四年位前、予備運動終了後、朝日に向かって爪先立ちで両手を伸ばした瞬間、両方の手の平に宇宙の気がバリバリと何発も。そして手の平からポンポンと出て行きました。
腰を抜かす程の驚きと喜び、以来毎日気に触れています。太極拳を勧めて下さった高元先生、Thank youの一語です。そして大分の副会長千鳥先生、福岡の米谷先生、そして生徒の皆さん、有難う御座います。

3.福岡の整体師粟田先生、あの時苦汁を飲まなかったら、今、どうなっているか分かりません。先生、心からお礼を申し上げます。

4.別府時代、実に多くの人々からお世話になりました。青山喫茶の会の皆様、お変わりないでしょうか。私元気になったら、年何回も別府へ出かけます。その節は宜しく。

5.名古屋製鉄所時代、仕事も山登りも何時も一緒の川端さん、今は愛知県の宣教師、私の症状を知って毎日回復を祈って呉れています。本当に有難い。

2018年9月20日木曜日

製鉄所時代

これを契機に東大、京大卒が主力の品質管理課へ配属され、統計学も彼等と一緒に東京で東大教授の講義を毎月一週間半年受けた。この統計学を活用し、室蘭製鉄所新設のガスホルダーと発電所の容量を算出、予算獲得の為、建設の最高幹部、佐藤さんが何回も私を本社へ連れて行ってくれた。
当時はプロペラ機。思い出がいっぱい。
そして昭和40年新設の名古屋製鉄所へ転出、ガスホルダーと発電所の容量を算出した。その後、掛長として製鋼へ異動。たまたま机の側を人が通ったので頭を上げたら、なんと室蘭でお世話になった佐藤さん。「おーお前此処にいるのか、大分へ来い。」と言われ、昭和46年大分製鉄所へ異動。昭和53年課長、その後関連会社へ出向。その時の支店長は、室蘭時代にお世話になった亀井さん。
人生の進路は脈絡、全ての人に感謝、全ての人に尽くす、やはりこれは最高。
最後になったが、お母さんと私が初めて会ったのは、室蘭煉瓦工場の事務所の入り口に一番近い机。

2018年9月15日土曜日

教習所での思い出

教習所での専攻科目は耐火煉瓦、鉄を鋼にするには1450℃で加熱する。
この高温に耐える煉瓦は宝石並み。最高級の珪石を使い粒度調整も念入りに型を作り上げるが、珪石の加熱は、530℃付近に急膨張点があるので、その近くはゆっくり加熱しないと煉瓦に亀裂が入る。当時は炎の長い石炭を使うのが定石。
教習所卒業後、煉瓦工場に配属され真っ先に丸窯を覗いたら、紅い炎が直接煉瓦に触れているので、上司に530℃までは炎の出ないコークスで焼いてはと提言した。
上司はやってみようと実行したら、40%台の歩留まりが一気に倍加80%台。お陰で社長賞そして当時全国的にも著名な永野重雄社長、本社の重役陣に囲まれ、昼食会を行ってくれた。

2018年9月11日火曜日

幼年期の思い出

幼年期の思い出は殆どない。何歳頃か、兄姉達が集まって、食べ合い談笑。俺一人外されていて、側の紙をくしゃくしゃに。
兄たちビックリ、大笑いされた記憶、未だ残っている。

これは自慢話、以前触れたかも知れないが小学六年生時、算数の成績開学以来と教師から言われたが兄弟は勿論親にも言ってないかも。小学校卒業後は旧制商業、算数は中学に比べたら半減。親から「代数のあたま」と「幾何のあたま」の本を買って貰い、一人で全部読み切った。これを契機に理数科は全て自習。八幡教習所の合格はこのお陰。

2018年9月7日金曜日

戦時下の思い出 その2

八幡での生活は終戦一年前。過酷そのもの。
寮、教習所も戸畑中原、直ぐ傍の皿倉山の山頂に高射砲陣地、砲弾運び何回も。
食事量は政府の指定範囲、毎日朝食時、三食貰い、それを全部平らげ昼、夜は食べる物なし。そこで暇をみては皆で雑草取り、「これは食べれる、これはダメ。」と声をかけながら。雑草は軽く水洗いし、塩をかけて飯盒で煮るだけ、私の体重は45㎏に。

終戦4か月前、兵役検査があり、レントゲンで肺が真っ黒で、肺門リンパと言われ、兵役免除された。もし入隊していたら北海道出身者はシベリアへ。終戦後極寒の地で強制労働を強いられ六万人の方が亡くなったと聞いた。私も行っていたら間違いなくその一人になったか。肺門リンパになった時期、そして治った時期も知らない。まさにこれは神に感謝

八幡の市街も空爆を受けたが、その時期は覚えていないが、米軍B29、二機が皿倉山の高射砲を受け海に落ちていくのをこの目で見た。翌朝八幡東の電車通路を歩いたが、死骸がごろごろ、寮に帰ったら四人部屋の一人も焼夷弾の破片が腹に当たり亡くなったと聞いたが、場所も遺体もみていない。明日は我が身。そんな時代だった。

終戦後、一度帰省したら、昭和19年7月、室蘭が米艦の砲撃中、兄が病気で亡くなったと初めて聞いた。遺体は親父が荷車に乗せ、一人で焼き場で焼いたと。

2018年9月5日水曜日

戦時下の思い出 その1

私は大正15年9月北海道室蘭市で出生、昭和7年の満州事変時、小学1年生、思い出はない。
小学校卒業後商業校に入学。五年生だが、戦時下の為四年半で卒業、地元の製鉄所に入社したが、すぐ八幡の教習所(今の高専クラス)への受験を勧められパスし、昭和19年8月八幡へ向かった。
青森までは母親と一緒。
そこでおばあちゃんから林檎をリックにいっぱい貰い、それを食糧に裏日本経由で八幡へ向かった。
当時日本各地は米国の爆撃下、列車は動いては止まり、止まっては走る、その連続。枝光駅まで七日間、しかも真夜中、町は灯火管制で真っ暗、車内もかすかな灯りのみ。
今夜どうしようかと思案中、前の席のおじさんが「坊や何処へ行くの?」と聞いてくれたので事情を話したら、「それは無理、今夜私の処へ泊りなさい。」と言って一泊させてくれた。有難いの一語、されど部屋も暗く、名前も聞かずお別れした。
今もお前は馬鹿かと時折悔いている。

2018年9月3日月曜日

我が夢

1.心の持ち方
我が老後、全ての人、全ての物に感謝し、前向きに明るく、愉しい日々を送ります。
2.My life work
この世のすべての生物、物質そして宝くじの当落も宇宙の重力に支配されている。これは私の直感。宝くじの代表ロト6の当落を統計的に分析しています。頭の良い人はそんな事は絶対に出来ない、出来れば人類初のノーベル数学賞と冷やかされますが、私は出来ると信じ、この10年間夢中。お金とは何の関係もありません。然し、成功してもお金にしないと誰も信じないので、成功時はお金にして今まで世話になった全国の人々にお礼として差し上げます。これが私の夢。

2018年9月2日日曜日

私の目標

平成30年8月12日
私は9月11日で満92歳。老後は異変続々。
70代最後、狭心症で右冠動脈にパイプ3本。この為、血圧管理は最高に重要。
80代半ば、道路をまっすぐ歩けなくなった。医者の診断は加齢の一言。
90代、眩暈ふらつき増強、手足のビリビリ感、何故か睡眠薬が処方され、最初こそ良かったものの、そのうち起きても朝から眠気、夕方は目も開けられない睡眠不穏状態。今も副作用がずっと継続している。
当面の私の目標は、睡眠薬をやめて、眠気を正常に戻すこと。しかし、睡眠薬の依存性は相当強い。ぐっすり眠る快感を忘れられなくて、中々レンドルミンがやめられない。
                                 康の手紙より 

一番嬉しかったことは

父に問う Q.今、辛いことは? A.眠れないこと。睡眠薬の副作用。眠たいのに眠れない。 Q.今、楽しみなことは? A.ロトを考えること。 Q.人生で一番嬉しかったことは? A.みんなに支えられて生きてこれたこと。 Q.人生で一番悲しかったこ...